「東屋のある中庭で酒を飲む人々」 《原画同寸》

画寸 67.6 x 58.5 cm (フレームは含まない) 《原画同寸》
油絵用キャンバスに 【高精細デジタルプリント】 で原画の持つ微妙な色彩と質感を再現した高品質な複製画です。
複製に使用するマスター画像はこの作品を所蔵している美術館、または版権所有者からの最高品位のものです。

「東屋のある中庭で酒を飲む人々」 《原画同寸》

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1658年 キャンバスに油彩 オリジナル・サイズ:67.6 x 57.5 cm 個人蔵


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 (左はエルミタージュ・ゴールド)

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ピーテル・デ・ホーホ(Pieter de Hooch、HooghないしHoogheとも、1629年12月20日 - 1684年)

17世紀、オランダ全盛時代(「黄金時代」)の風俗画家の一人に数えられ、特にデルフト時代の風俗画はデルフト派の絵画として高く評価されている。ヨハネス・フェルメールとほぼ同時代を過ごし、フェルメールの作品にも影響を与えている事でも知られる。
1629年12月20日にロッテルダムの改革派教会で幼児洗礼を受けた。彼の父親は、ヘンドリック・ヘンリッツ・デ・ホーホ(Hendrick Henricksz de Hooch)でレンガ職人で、母親はアンネティエ・ピーテルス(Annetge Pieters)といい、助産婦であった。両親はロッテルダムで1629年1月19日に結婚して、ピーテルは、5人兄弟の長男で、この夫婦の子供で1657年以降も生き残った唯一の子供でもあった。
デ・ホーホの若い頃の事については殆ど知られていないが、労働者階級の家庭で養われたという事については間違いない。父親のヘンドリックはレンガ職人として1641年と1644年の記録に載っており1661年にはレンガ職人の棟梁として記録に残っている。レンガ職人たちのギルドから熟練工として加わっていてほしいとの意向があったからだった。ヘンドリックの名声は見習い工時代から認められていて熟練工の試験に合格している。妻が亡くなるとヘンドリックは再婚してロッテルダムの銀貨1700枚(1700ギルダー)の家をわずか300枚で購入する事が出来た。ヘンドリックは、1663年にその家を売り払い、3番目の妻とミッテルベルグへ引っ越した。

ピーテル・デ・ホーホは風景画家ニコラス・ベルヘム(Nicolas Berchem)に師事していて、ロッテルダム出身の画家仲間であるヤコプ・オフテルフェルトと一緒に学んでいた事が分かっている。おそらくイタリア流の風景画家であるベルヘムの教えを受けた場所はハールレムであったと考えられる。デ・ホーホがデルフトの住人として現れるのは1652年8月で、この時期にデ・ホーホは最も親しい画家仲間であるとともに義弟でもあったヘンドリック・ファン・デル・ボルフと共に文書に署名している。
いつ頃の事か正確な日付は分からないものの、デ・ホーホはアムステルダム郊外の急速に発展する新市街に引っ越したと考えられる。その時ヤンニヒエ・デ・ホーホは1660年4月にアムステルダムの西教会(Westerkerk)で行われたヘンドリック・ファン・デル・ボルフの息子の幼児洗礼に立ち会っている。ピーテル・デ・ホーホは1663年5月にデルフトに旅行している。アムステルダムにある1663年6月と1665年3月のデ・ホーホの子供たちの墓碑銘は、デ・ホーホがそれぞれレフリールスパッド(Reglierspad)の路地とエンゲルスパッド(Engelspad)の路地に住んでいた事を示す。その様な路地裏の小径はアムステルダムの旧市街の壁の外側にあってデ・ホーホが最も貧しい住民として暮らしていた事の証左になっている。にもかかわらず1663年に裕福な家族の描写をしている。デ・ホーホの絵の主題はアムステルダムに引っ越して以来上流階級の生活を描いた上品なものが増えてくる。

ピーテル・デ・ホーホの初期の画風と素材は、非番に賭け事や酒、煙草を楽しむ兵士たちや女中とのからみの様なものであってアドリアン・ブラウエルをイメージさせる様な人物の表情に重点が置かれ背景をぼかす様な画風であった。それが1656年から57年頃から急激に変化する透視画法(遠近法)を用いた室内空間に人物を配置したような絵に変化する。小林頼子は1656年から57年頃はおそらくデ・ホーホがサミュエル・ホーホラーテンやフェルメールと出会った時期でその事と関係があるのではないかと推測する。
フェルメールの「兵士と笑う娘」はデ・ホーホの「カード遊びをする二人の兵士とパイプを詰める女」と構図がよく似ている。デ・ホーホはテーブルの右側に座った男の額の少し前方に消失点を設定し窓を手前よりやや奥の位置から画面の端で途切れる様にして奥の壁に近い位置にある窓との大きさに違いが目立たない様にしている。正面奥にある壁と床面の交わる線が画面全体からみて余り高くない場所にして左後方の奥行きを暖炉と立った女性を描き込む事によってバランスのとれた空間の後退を表現している。ロンドンのナショナル・ギャラリーにある「二人の士官と女」はフェルメールの「紳士とワインを飲む女」を想起させる。デ・ホーホのバランスのとれた画面構成はフェルメールの「紳士とワインを飲む女」と比べフェルメールが左に偏って消失点をとり過ぎた為に手前左の窓が大きくなり床面のタイルが何となく歪んで奥の壁際で極端に小さくなってしまっている。
また、フェルメールの「兵士と笑う娘」はロンドンのナショナル・ギャラリーにあるデ・ホーホの「男二人、給仕の女と杯を交わす女」に用いられた部屋と酷似している。正面奥の壁には北を左側に横倒しにしたオランダ(ネーデルランド)の地図があり、デ・ホーホが後ろ向きに立った女性を描いた位置にフェルメールは鍔の広い帽子を被った軍人と思しき人物を座らせ、デ・ホーホが二人のとぼけた様な表情の兵士を描いた間くらいの位置に若い娘を座らせた。デ・ホーホは好んで正面左から射す光のモチーフを使った絵をしばしば描いたが、「母親の義務-母の膝に頭を預ける子供」(1658年頃)の様に右手から射す光を用いた絵を描いた事もある。デ・ホーホが描いた「オウムと男女」(1668年)もフェルメールの「恋文」(1669 - 70年頃)に応用され両方とも手前の部分を暗くし奥の部屋はよく似たカーテンが一部遮る様に描かれている。デ・ホーホの場合は男性と女性であるがフェルメールは座っている女主人の背後に女中が立っている構図である。

ピーテル・デ・ホーホは「戸口越しの眺め」という画題で呼ばれる半分開いた扉とそこから見える風景というモチーフを用いた。フェルメールとデ・ホーホを結びつける直接の文書は聖ルカ組合の登記簿であるが、ジョン・マイケル・モンティアスによるとフェルメール家の公証人を務めたフランス・ボーヘルトの記録のなかにフェルメールの義母マリア・ティンスの名前と共にデ・ホーホの名前が出てくると指摘する。デ・ホーホは自宅の近所を時々描いておりデルフトの旧教会の塔が描かれているものがみられる。またデ・ホーホはデルフトの旧教会から100m以内の場所にある旧ヒエロニムスダール修道院へつながる通路である聖ヒエロニムスポールトの入口にある1614年の年号が刻まれた石の表札ないし銘板がみられる絵、すなわち「デルフトの中庭」など2点を描いている。そのうち1点にはクレイパイプを吸う髭を生やした男と金属製のビールジョッキをもつ男、その傍らに立っている女はワイングラスを片手に持っている。アンソニー・ベイリー (Anthony Bailey) はフェルメールとデ・ホーホが話していてカタリーナが傍にいるのを描いたのではないかと考える。デ・ホーホの絵には母親と子供がよく描かれ、母親が家事を切り盛りする姿や暖かささといった美徳ないし理想像や子供の躾や教育にからめた題材が選らばれた。
1661年以降のアムステルダム時代には流行の娯楽を楽しむ上流階級の生活を描く事が中心となり、上品ではあるが、美術史的にはデルフト時代のものの方が意義があり、優れていると評価されている。サットンは確実な証拠はないがデ・ホーホがレンガ職人の棟梁であった父親から透視画法に関連する実践的な技術について影響を受けたかもしれないと控えめに推測する。修復家のユルゲン・ウェイドム(Jorgen Wadum)はデ・ホーホやフェルメールの絵にはピンの穴があり、画面上に任意の一点を定めて消失点とし、消失点を通って水平になる様に左右に設定した遠隔点にもピンを打って細いチョークをまぶした紐を張ってそれを弾いてキャンバスに薄い線を引いたのではと考えている。ウェイドムはデ・ホーホの絵には少なくとも10数枚くらいの絵には確実に見つけられると指摘する。その様なピンの穴はロンドンのナショナル・ギャラリーにある「デルフトの中庭」、アウロラ美術基金のa woman with a baby in her lap and small child(膝に赤ん坊を抱えた女性と小さな子供)、ウォーレス・コレクションにある「戸口で母に籠を渡す少年」、ワルラフ・リチャーズ美術館にある「オウムと男女」、アムステルダム国立美術館にある「女性と手紙を持つ若い男」にもみられる。国立美術館の作品やアウロラ美術基金の作品の絵は目を細めれば観察する事ができるが、大部分のピンの穴はレントゲン写真を使わないと見つける事ができない。
遠隔点を使う事によって複雑な計算や計ったりせずに直交する点を求めて絵の中に床のタイルを描く事ができたり、絵の中の奥行きを調整する事ができたと思われる。紐を弾いて引いた薄い線は絵が完成するまで画面のバランスを保つのに役立った。デ・ホーホはチョークをまぶした線を幾つか選んで、定規で石墨や絵の具を用いてなぞったと思われる。沢山のチョークの線のうち絵を作っていく過程で消された線があり、選択的に残された僅かな線を赤外線写真で見つける事ができる。
ウェイドムはフェルメールの描くタイルはしばしば菱形になったが、デ・ホーホは対角線の方向を捉えて正方形のタイルを描いていた事を指摘する。デ・ホーホは更に遠近法について実験的な試みを行っている。一つの絵のなかに二つの消失点と水平な平行線を設定している例として、ルーブル美術館の「飲酒する女と二人の男」には一つ目の消失点が立っている男の右手にあり、二つ目の消失点は奥の二つめの更に向こうにある金庫にある。ロンドンのナショナル・ギャラリーにある1658年の「中庭の風景」には手前のブロックの面と奥の通路の面が僅かに異なった面である事を表現する為に、異なった位置にある互いに平行で水平な線と消失点を用いている。ケルンのワルラフ・リチャーズ美術館 (Wallraf-Richerz-Museum) にある「オウムと男女」では、デ・ホーホは巧みに二つ目の戸口に二つの水平な線の一つを交差させて透視画法(遠近法)を維持出来る様工夫している。線を用いた透視画法(遠近法)に厳密に適合させようとするフェルメールに対し、デ・ホーホは遥かに多くの空間的表現が視線の動きになじんで錯覚を起こさせるような工夫をしている。デ・ホーホはエマヌエル・ウィッテと親しく、ウィッテが描く教会堂の内部をより印象的にみせ空間について錯覚を起こさせるより汎用性のある方法を用いた人物である。この様な錯覚については遠近法の専門書にも記載があり、17世紀にはその様な面からも遠近法の研究から影響を受けた色の明暗、色調を巧妙に変化させたり物の大きさや配置を組み合わせて絵全体を作っていくhoudingという概念が盛行していた。(ウィキペディアよりの引用)

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